古典的自由主義に関してであれ、リバタリアニズムに関してであれ、最近話題になった「学問の自由」に関してであれ、人々の間で大きなギャップがあるのが「自由」に関する感覚だ。多くの人にとって、それは経済的繁栄のための単なる便法であったり、単に公権力から抑圧を受けない状態であったり、単に義務や規範を課されない放任状態でしかなく、何か経済的・政治的条件があれば簡単に制限してよいもののようだが、そうではない人たちももちろん多く存在する。ここでは、そうではない人たちの先駆けの1人について書いてみる。
政治的・経済的な意味合いでの「自由」はロックやアダム・スミス以降の文脈で語られることが多いが、その先駆けはルネサンスにおけるギリシャやローマの「自由」の再生だった。しかし、ギリシャ=ローマとルネサンスの間の中世ももちろん暗黒の世界などではなく、ルネサンスやジョン・ロックへの伏線となる哲学・宗教面での流れも存在していた。そして、この伏線は倫理的な要求としての自由として、近代的な自由の中でも重要な位置を占めている。そのことをよく示すのが12世紀英国の「ソールズベリーのジョン(自称:Johannes Parvus)」だ。
ジョンは英国ソールズベリーで1120年頃に生まれ、その後パリ大学で学び、シャルトルでコンシュのウィリアム、ピエール・アベラール、シャルトルのベルナールの下で神学を学んだ。勉強好きで教会でも出世したようである。ジョンが変なところで有名になったのが、ヘンリー2世の教会に対する課税に反対して書いた「Policraticus」だ(この本のおかげで当人は政治的ににらまれてフランスに逃亡することになる)。「Policraticus」では、言論の自由の重要性や公正な統治者の義務、ひいては暴君を殺害することの正当性など当時としてはとんでもないことを書いているが(12世紀である)、中でも重要な概念は徳(Virtue)を介した善と自由の不可分性だ。ジョンはアリストテレスの「徳は最高の善である」を前提として、「徳は自由なくして完全に達成することは不可能であり、自由の不在は徳が不完全であることの証明である」としている。
人が善行を強いられる場合、それは善行の意志を伴わないため徳を増すものではない。またその行為の性質について熟考することもないため、倫理的生活に不可欠な中庸(アリストテレス的な意味での)の能力の強化にも役立たない。したがって、統治者が人々に善行を強いることは徳の可能性を絶やすことに他ならない。人を支配することは、人が自由な主体として倫理的に成長することを否定するものであり、人を奴隷化するものとして否定される。ジョンは自由とは「個人の判断に従ってあらゆることを自由に判断すること」であり、人々は徳を増進するために、自らの判断と意思力を行使する必要があるとしている。ジョンは「“He who is most virtuous is most free and the freest man enjoys the greatest virtue.”」(最も徳が高いのは最も自由な人間であり、最も自由な人間が最高の徳を享受する)と書いている。
ジョンは自由を与えられた人間の堕落のリスクについても述べているが、それが他者を害するものでないかぎり(そして、ここは中世的なところであるが、宗教の正統を害するものでないかぎり)許されるべきものであるとして寛容の重要性も説いている。自由にはリスクが伴うが、そのリスク無くしては人間に高い望みはない。すべての人間が自由であるほど、すべての人にとって徳の可能性が大きくなる。自由は完璧ではなく、人間の意思は弱いため、徳を保証するものではない。しかし、人に特定の行動を強いて奴隷化する悪よりも、自由を与える善を選択するべきである。統治者の役割は、人々がその自由を十全に行使して倫理的に成長できるように、(統治者がでっちあげる法ではなく)神の恩寵としての法に従って平和な社会を維持することである。
まあ、中世的な部分を乱暴に割愛して紹介すると、そのまま近代の自由の概念の(倫理的)背景となっている。私は英国で経済学を学んだが、その時古典的経済学は単に経済的な効用を合理的に最大化する仕組みの探求ではなく、善きことが効用面でも最高の結果をもたらすことを証明するための仕組みなのだと感じたことがあったが、あながち間違いでもないだろう。
古典的自由主義者が、統制経済や計画経済を嫌うのは、それが経済的不効率につながるからというだけの理由ではない。善ではないからである。誰かさんが税は歳入のためではなく、人々のインセンティブを変えて行動を変えるためだというときに、古典派が眉をひそめるのは別に彼らが税金を嫌っているからだけではない(もちろん、それが大きいが)。動機が非倫理的だからである。